マタイ5章
5:1 その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
5:2 そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
弟子たちに対する教えであることが初めに示されています。ここには、天の御国に入ることが教えられています。後に見るように、これは、天の御国で報いを受けるためにはどうしたらよいかという話なのです。
その構成は、高度な信仰の歩みから、順に俗なもの、悪いものに話が移っていきます。
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
「幸いです」と訳されている語は、「神の恵みが拡大される」ことを表します。すなわち、神の恵みの実現なのです。その恵みは、信仰によって受け入れるところに実現します。
「心」と訳されている語は、正確には、霊のことです。霊は、神の言葉を受け入れる部分すなわち座です。
ここでは、貧しさは、霊の問題です。単に心の状態を言っているのではありません。
「貧しい」は、かがむという原意から「物乞いのような」という意味、また、「全く金がない貧乏な」ことを表します。
そして、これは、霊に関して当てられていますので、神の御言葉を求めている人のことを表しています。お金がない物乞いのように、貪欲に御言葉を求める人のことです。この人は、いわゆる「霊的に豊かな人」です。
そのような人たちは、天の御国を自分のものとします。神の国ではなく、天の御国と言われているのは、ユダヤ人が地上の国を求めていることに対して、天に目を向けさせるためです。なお、天の御国と神の国は同じ意味で使われています。
そして、この天の御国を自分のものにすることは、神様からの報いを受けることを表しています。天の御国に入ることは、いわゆる救いの立場を持つという意味ではなく、報いを受けることです。御国に入るという表現もそうです。これは、御国で報いを受けることを表現しているのです。そのことは、十節からの記事で明確に記されています。「天の御国は、その人のものです。」と記されていますが、その幸いは、「天においてあなた方の報いは大きいのだから。」と記されています。その幸いを喜ぶのは、報いが大きいからです。
貧しい者として神の言葉を求め、受け入れる者は、大きな報いを受けるのです。御言葉が生ける糧であり、彼のいのちなのです。
最初に示されていることは、最も重要なことです。それは、御言葉を求めることです。
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
悲しむ者は、彼が個人的に望みとしていたことが失われることでの悲しみです。多くは、この世の事柄です。信者に関しては、それらを捨てて悲しむように勧められています。そして、御国で報いを受けられるように歩むのが信者の歩みです。ここでの「慰められる」と訳されている「励まし」は、そのように神からの評価を受けられるように勧めることです。彼が個人的に望みとしていることが失われることを悲しんでも幸いなのです。御国で永遠の資産としての報いを受けるからです。そのための励ましを受けることができるからです。
・「悲しむ」→個人的な希望が終わることで悲しむこと。
・「慰められる」→神の法廷に立つ証拠を勧められ励まされる。なお、新約聖書で「慰め」と訳されている語は、次の聖句を除き、すべてこの「励ます」の意味です。
コリント第一
14:3 しかし預言する人は、人を育てることばや勧めや慰めを、人に向かって話します。
--
「慰め」と訳されている語は、ここにだけで使われています。他の箇所の「慰め」は、上記聖句の「勧め」に該当します。ここでは、「慰め」を意味する語が同じ文に使われていますので、他の箇所で「慰め」と訳している語を本来の意味である「勧め」としています。
5:5 柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
これは、詩篇37篇編の引用です。
詩篇
37:1 悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者にねたみを起こすな。
37:2 彼らは草のようにたちまちしおれ青草のように枯れるのだから。
37:3 主に信頼し善を行え。地に住み誠実を養え。
37:4 主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
37:6 主はあなたの義を光のようにあなたの正しさを真昼のように輝かされる。
37:7 主の前に静まり耐え忍んで主を待て。その道が栄えている者や悪意を遂げようとする者に腹を立てるな。
37:8 怒ることをやめ憤りを捨てよ。腹を立てるな。それはただ悪への道だ。
37:9 悪を行う者は断ち切られ主を待ち望む者彼らが地を受け継ぐからだ。
37:10 もうしばらくで悪しき者はいなくなる。その居所を調べてもそこにはいない。
37:11 しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。
--
柔和であることは、三十七章八節にあるように、怒ることをやめ、憤りを捨てるのです。腹を立てないのです。私たちは、不正に対して憤るものです。しかし、それをしてはならないのです。怒ってはなりません。それは、悪への道であるからです。
人は、自分の思い通りにならないと怒るのです。特に不正に対してはそうです。ここで教えられていることは、神様の手に委ねることです。
このことは、イエス様が山上の垂訓で語られた言葉と同じです。「柔和な人」は、悪に怒らず、主に委ね、信頼し誠実に歩む人のことです。彼の望みは、御国を相続することです。地を受け継ぐとは、御国を永遠に受け継ぐことです。彼は、自らの繁栄を喜びとするのです。永遠の栄光としてそれを受け継ぐのです。
・「柔和」→G4236 名詞。力とそれを使わずにおくことすなわち控えることの適正な配合。優しさの中の力。不必要な厳しさを避け、それでいて、まずいことにならない、あるいは、必要な力を使うのが遅すぎることにならない。
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
義は、信仰による義であり、御心行うことで義の実を結ぶことです。既に神を信じて義とされています。その上で義の実を結び御国の報いを受けるのです。義の実を結ぶことも、信仰によります。それは、私を愛してくださった神の御子を信じる信仰によります。義の実を結ぶことは、御霊によることであり、信仰によってキリストが心のうちに住まわれて働かれることによります。
5:7 あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
契約に対する忠誠あるいは誠実をもって歩む者は、幸いです。その人は、神の契約に対する忠誠をもって契約に約束された祝福を受けるからです。
・「あわれみ深い」→神の契約に対して一貫して行動する。形容詞。
・「あわれみ」→契約に対する忠誠あるいは誠実。同情を意味していません。
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
心の清いことは、その人自身の幸いです。神様が御自身を現してくださいます。また、深い交わりを持つことができます。
5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
人を変えて、神のようにしようとするのが神の働きです。それを神の言葉を宣べ伝えることで実践する人のことで、神と同じ働きを担う者として神の子です。
・「平和をつくる者 G1518 名詞」→人をかけのない完全な者とするために神の言葉を臆することなく宣言する者。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
迫害を受ける者は、天の御国を自分のものとすることができます。そのことは、もう一度言い換えられていて、迫害を受けるものは、天において大きな報いを受け取リます。それが天の御国を自分のものとするということであるとわかります。
ペテロ第一
1:3 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。
1:4 また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。
1:5 あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。
1:6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、
1:7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。
--
新しく生まれた者として聖霊によって歩む者は、生ける望みとしての天の資産を受け継ぎます。これが、御国を自分のものにするということです。それは、終わりの時に現される救いとも言い換えられていて、救いは、御国の資産を受け継ぐことを指しています。ペテロ書では、全てその意味で使われています。そのような報いを受けるのですから、試練の中でも喜んでいることができるのです。その価値は、金より高価であり大いなる報いなのです。
5:13 あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
塩は、永遠の契約と関係しています。祭司が捧げ物を自分のものとすることができるのは、永遠の塩の契約です。ダビデの子孫が王位を継ぐことも、永遠の塩の契約です。ここでは、塩気を保つことは永遠の契約にふさわしく歩むことを表しています。これは、信者の証しと関係しています。次の節の光と同様に証しに関係しています。
すなわち、信者が永遠の契約に与っている者にふさわしく行動していないならば、神にとってなんの役にも立たないということです。そして、「人々」によって踏みつけられます。原語には、明確に「人間:複数形」と記されています。すなわち、人間によっても価値のないものとみなされるということです。
塩気をなくしたら、何によっても塩気をつけることができません。永遠の警句を望みとするから、その報いが受けられるように行動するようになるのです。その望み以外のものをもって塩気をつけることはできません。この世のものを求めて生きている信者は、御国の報いを求めいないのです。
なお、塩の解釈について、聖書に根拠を求めないで、腐敗の防止剤と解釈するやり方は、御言葉の勝手な解釈に通じるものです。塩にその効果があっても、それが適用されるという根拠はありません。
・塩の契約
民数記
18:19 イスラエルの子らが主に献げる聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたと、あなたとともにいる息子たちと娘たちに与えて、永遠の割り当てとする。それは、主の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。」
歴代誌第二
13:5 イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルの王国をとこしえにダビデとその子孫に与えられたことを、あなたがたが知らないはずはない。
--
5:14 あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
5:15 また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。
光は、真理の教えです。その光が信者に当てはめられているのは、信者がその行いによって真理の光すなわち御心を行う実践による証しをこの世に現すからです。信者の善い行いを見て、人々が父を崇めるのは、信者にそのような行動をさせる神の教えを見るからで、それによって神を崇めるようになるのです。
ですから、この世にあっては、信者は、真理を現すべき者として置かれていのです。山の上に置かれた町なのです。隠れることができないのです。隠すべきでもないのです。教えを実践で現さなければならない者であるのです。
明かりをつけて升の下に置かないこともそうです。皆にその明かりが見えるようにするのです。人々の前で輝かすためです。なお、升を商売と関連付けるのは、深堀りし過ぎで、升は、商売でなくても家庭で普通に使われる道具です。
5:17 わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。
5:18 まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。
律法や預言者は、廃棄されません。イエス様は、教えをされましたが、それは、律法や預言を廃棄するものではないのです。全ては、整合します。そして、律法や預言に示されていることは、全て成就するのです。
今日、新約の時代にあって、律法や預言が廃棄されることはありません。それらは、全て成就するのです。なお、例えば、捧げ物や幕屋については、比喩であり、キリストを表しています。実際の行いとして捧げ物をすることは止みました。それは、比喩が実現したからです。
5:19 ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。
それですから、戒めの最も小さいものでも、破ってはならないし、そのように教えてもならないのです。
そのような人は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。これは、戒めの最も小さいものと関連付けています。そのような人は、天の御国において、最も小さいものと評価されるということです。これは、天の御国における報いを決定します。天の御国における報いは、御言葉を行うかどうかにかかっています。そのことは、二十一節にも示されています。
マタイ
7:21 わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
−−
天の御国に入るという表現は、天の御国で報いを受けることを表しています。報いを受けるのは、父の御心を行ことによります。
5:20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。
「義」とは、正しい行いです。天の御国に入るとは、御国で報いを受けることを言っています。義とされていわゆる救いの立場を持つことを言っているのではありません。
律法学者やパリサイ人のような表面的な行い、また偽善を行っていては、天の御国で報いを頂けないと言っているのです。これは、実際的な行いによる比較です。
これは、イエス・キリストを信じた者は、罪赦されて義とされるので、律法学者やパリサイ人の義に勝ってるので。救いの立場に与ると言っているのではありません。
5:21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
イエス様は、律法の規定を取り上げて、殺人の罪について裁きがあることを聞いていると言いました。しかし、彼らの律法に対する理解は、表面的なものであることを指摘するためです。彼らの理解では、実際の殺人を行ったらさばきを受けるというものです。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。
イエス様は、「しかし」と続けられて、神様の要求は、もっと深いものであることを教えられました。
兄弟に対して怒ることは、外には現れないことです。しかし、その内面の心の状態が神の前には、重大な罪であるのです。
兄弟に対して怒ることは、小さいことのように思われますが、人を殺すほど重い罪であることが指摘されています。その怒りは、表に現れなくても、神様はご存知です。その人の心の中には、人の存在を否定し、死ねば良いと思う思いが働くのです。それが行動になって現れれば、殺人になるのです。そのように、実際の行いになったことだけが罪なのではなく、心の中の思いが既に罪なのです。それは、殺人と同じことです。
また、「馬鹿者」すなわち、「侮りの表現として空っぽ」と言う者は、心の中に思っただけでなく、実際に外に現したのです。ですから、これは、犯罪なのです。それで、他の人の人格を否定し、侮ったのという犯罪行為のために、最高議会で裁かれなければならない行為なのです。これは、軽い罪ではなく、重大な罪なので、最高議会で裁かれなければならないのです。口から出す言葉は、神の前には、重い意味があります。
また、「愚か者」というような者は、ゲヘナに投げ込まれます。「愚か」は、理解が鈍いことを意味します。人の口をついてつい出てしまうような言葉を口から出したならば、その人は、永遠の滅びであるゲヘナに入ります。
人々が罪ではないと思っている、あるいは些細なことと考えていることが重大な罪であるのです。
5:23 ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、
5:24 ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。
そして、人間関係において、たとい自分が正しいにしても、相手が恨みを抱いているような場合、それは、相手が悪いのだから、相手が問題の解決を図るべきだと考えてはいけないです。神様の前に出た時、相手の人の問題であったとしても自分から解決のために動くべきなのです。相手の自分に関する問題を解決してあげて、相手の方が神の前に正しくあることを図らなければならないのです。自分の方から折れて、仲直りをするならば、それで、神の前に問題が解決されるのです。神様の求めていることは、そのようなことです。自分が正しければそれで良いということにはならないのです。
喧嘩をした時、悪いことをした相手が謝るまで赦さないというのは、よくあることです。しかし、神様は、そのようにしていることを望みません。悪くなくても、自分から仲直りするようにしないといけないのです。そうすれば、神様は喜んでその捧げ物を受け入れてくださいます。
5:25 あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。
罪をそのままにして、ゲヘナに入るようなことがあってはならないのです。ここでは、訴えるのは、神様の立場です。和解は、神との和解で、罪の悔い改めによる和解です。
5:26 まことに、あなたに言います。最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません。
一旦裁判官の判決を受け、牢に投じられたならば、完全に弁済が住むまで、出て来ることはできません。ただし、神の前に、罪に関しては、自ら償うことはできません。
5:27 『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。
律法に規定されている姦淫の罪に関して、情欲を抱いて女を見るだけで、心のなかで既に姦淫を犯したのです。神の目には、そのようなことが罪とされます。
5:29 もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。
見ることで犯す罪について示した後で、その目が躓きをもたらすことに話が展開されています。目が躓きをもたらすならば、それをえぐり出して捨てたほうが良いのです。その躓きをの結果は、ゲヘナです。そこに入るよりは、体の一部を失ったほうが良いからです。ここにも、目で犯す罪についてそれが重大なものであることが示されています。
5:30 もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。
そして、次に、手が躓きをもたらす場合について同様に示されています。手は、行いの比喩でもあります。ゲヘナに落ちることと、手を切って捨てることが対比されていて、ゲヘナの裁きの重さが示されています。そして、そこに入るようなことがあってはならないと警告されているのです。
5:31 また『妻を離縁する者は離縁状を与えよ』と言われていました。
5:32 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁する者は、妻に姦淫を犯させることになります。また、離縁された女と結婚すれば、姦淫を犯すことになるのです。
妻との離縁について、不貞以外の理由で離縁することが罪をもたらすことを示されました。それは、離縁したとしても、相手が生きている間は、相手の妻という立場は変わらないからです。離婚状を渡して離縁することは、人の都合による法律上の手続きです。しかし、神の前には夫婦であることに変わりがないのです。ですから、離縁された者と結婚することは、姦淫の罪となります。
このことは、十九章でさらに詳しく説明されています。
マタイ
19:3 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
19:4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
19:5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
19:6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
19:7 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
19:9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
−−
5:33 また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。天にかけて誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
誓ってはいけないことを示されたのは、人が誓いに背くからです。神の前に誓うことは、一点の背きもあってはならないのです。しかし、それは、人には困難なことです。そして、神に対する誓に背いたという罪を犯すことになります。人がいくら心に固く決心しても、それを守り通すことは困難なのです。
それでは、神に誓わないで、天を指して誓うことをするかも知れません。しかし、天にかけて誓うことは、決意の固さを示すものではありますが、天にかけて誓うことは、そこに御座を設けておられる神がおられるので、天には権威があるのです。ですから、直接神に対して誓わないならば、罪に定められないということではないのです。
5:35 地にかけて誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムにかけて誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
同様に、地にかけて誓うことは、直接神に対するものではありませんが、地を権威あるものとしているのは、神様の存在によります。神様が地を造り、それを支配しておられるのです。本質は、神の権威にかけているのであって、背くことは、罪になります。
エルサレムを指して誓うことも、神の権威にかけて誓うことです。その都が偉大な王の都であるのは、神様が立てた王の都であるからであり、神が選ばれた都であるからです。結局は、神にかけて誓うことになるのです。
5:36 自分の頭にかけて誓ってもいけません。あなたは髪の毛一本さえ白くも黒くもできないのですから。
人の頭にかけて誓うことは、別の問題があります。神にかけて誓うことは、その誓いが守られているかどうかを判断し、裁く方がおられるので、誓に意味があります。しかし、人の頭を指して誓っても、人には、誓いを保証する力はありません。その誓いが守られているかどうかさえ判断できず、また、それを裁く事ができないのです。
5:37 あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい。それ以上のことは悪い者から出ているのです。
ですから、言うことは、はいははい、いいえはいいえと言いなさいと命じられました。それ以上のことは悪から来ます。
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
これは、律法の規定の中で、罪に対して、相応の処罰をしなさいということです。ですから、自分に対して悪いことをした人がいれば、その悪を裁いて、相応の処罰を返すことを求めることは正当なこととして示されています。これは、人間社会の中で、秩序が保たれるためには必要な定めです。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。
しかし、神様が人に求めることは、そうではありません。悪い者に手向かってはいけないのです。右の頬を打たれた時、それに対して仕返しをしてはならないのです。そうではなく、左の頬も向けるように命じられました。それが神様が求めている人の姿です。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。
相手が法的手続きを踏んで、告訴し、下着を要求した場合、争うのではなく、上着も与えるのです。
5:41 あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。
一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒にそれ以上に二ミリオン行くのです。
5:42 求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。
求める者には与えるのです。借りようとするならば。背を向けてそれを拒んではなならないのです。
5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
律法では、隣人を自分と同じように愛しなさいと命じられてます。しかし、敵を憎むようには命じられていないので、これは、人々から出た言葉です。
しかし、自分の敵であっても愛するのです。迫害する者のために祈るのです。私たちの日常において、憎しみを受けるようなことがあっても、私たちは、その人のために祈ることが求められています。
ここには、訳出されていませんが、「迫害する者のために祈りなさい。」の後に、「呪う者を祝福しなさい。迫害する者また憎む者によくしてやりなさい。」と命じられています。
5:45 (そのようにして)天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
そのようにして、天におられる父の子になるためです。立場としては父の子なのですが、父の子としてふさわしいものとして振る舞い、それを現すためです。父なる神様は、正しい人にも、正しくない人にも御自分の太陽を昇られてくださいます。父にふさわしい性質を持つ者となるためです。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
自分を愛してくれる人を愛することはできるのです。しかし、それではなんの報いもありません。ここでも。父にふさわしく同じように振る舞うことは、報いに関係していて、神の御心に適ったことを行うことで、報いが頂けるという話になっています。
自分を愛する者を愛することは、取税人でもしています。それをしても報いはないのです。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。
自分の兄弟にだけ挨拶をしても、何も勝っていないのです。異邦人でも同じことをしています。それは、当然すべきことであって、なにも勝っていないのです。ちなみに、兄弟に挨拶しないことは、当然すべきことをしていないのです。
私たちに求められていることは、父が完全なように完全であることです。人間的な標準で事を判断し、行動してはならないのです。人は、そのような誤りを犯しています。しかし、私たちが天の御国で報いを受けるためには、父が完全なように完全でなければならないのです。